Episode 07:自分のキャリアの責任は自分しか取れない





アムジェン株式会社
エグゼクティブ・ディレクター
スペシャリティケア事業本部長 執行役員 

馬場 継様

馬場 継(ばんばけい)さん略歴
名古屋大学大学院卒。製薬業界において20年にわたり主にマーケティング、営業、経営戦略等で要職を歴任、2018年からはグラクソ・スミスクライン株式会社 執行役員 スペシャリティケア事業本部長、現在は、アムジェン株式会社 執行役員 エグゼクティブ・ディレクター スペシャリティケア事業本部長として、スペシャリティ製品および開発製品に関する戦略の策定と実行ならびに全社横断的にマルチチャネルマーケティングおよびセールスオペレーションを担当。

父親からのアドバイスがキャリアのきっかけ

馬場さんは、これまでに数社外資系の製薬会社を経て現在に至っておられますが、まずこれまでのキャリアについてお話いただけますか。

私は理系大学院を卒業して、新卒でファイザーにMR(営業職)として入社しました。理系の大学院まで出ているのにどうして研究職を選ばなかったのかと聞かれるのですけど、これは、父親との会話がきっかけでした。
大学院では、ある疾患の原因となるタンパク質に関して、分子生物学的アプローチ、いわゆる遺伝子レベルでの研究をしてました。今となっては修士論文の題目すら正確に思い出せないんですけど(笑)。そういう背景もあったので、製薬企業のような生命関連企業には自然に興味を持ちました。当時は、バブル崩壊後の就職氷河期でかなり大変な時ではありましたが、就職活動では研究職、臨床開発職、あとMR職と3職種を受けて、それぞれ内定はいただけたんですね。最初は研究職に就くつもりで、内定承諾書にサインもしたんです。そんなある日、父親に就職活動はどうだったと聞かれまして。まあそれなりに厳しかったけど、内定もこんな会社からいくつかもらったよと答えたところ、そうしたら、どうするんだ?と。それで、やっぱり研究職かな、もう内定承諾書にもサインしたと言うと父は、「一つだけいいか」と切り出してきたんですね、「一生のうちで一度は営業をやりなさい」。その理由を聞いたところ、「どんな仕事をやる場合にも、コミュニケーション能力がビジネスパーソンとしての基本にある」と。それを身に着けるのに一番いいのが、「下坐の行」でもある営業職なんだと。営業職は、相手がどんな人であっても、自分を顧客より下に置いて、かつ、提案を通すという仕事であって、コミュニケーションの中では一番難しい状況。だから、コミュニケーション力が鍛えられるのが営業職なんだということを父に説明されまして。それを聞いて私も、学生ながら納得する部分があったんでしょうね。そんなに大事なことであれば、営業を先に早く経験したほうが良いんじゃないかと思いまして。翌日に、研究職の内定をいただいていた会社に電話して、すみませんやっぱり行きませんとお詫びをしました。そのあと、今度はMR職で内定を頂いていたファイザーに連絡。こんなところから私のキャリアが始まりました。

それまでもお父様から折に触れての人生のアドバイスっていうのはあったんですか?

それが特に記憶にないんです。基本的に放任主義、よく言えば子供の自由意思を尊重する家庭環境だったと思います。古い記憶をたどっても、小学校くらいの時に一度だけ、「弁護士になったら」って言われたくらいしか思い出せなくて。だからあまりそういうことを言わない父親が、急に真面目なことを言ったなあ、みたいな感じでしたね。それがすごく印象に残っています。そして、それは私にとっては適したアドバイスだったのかなと思います。営業職は、ファイザーにMRとして入社してから3年半経験しました。MRも大変面白かったのですが、3年目になってそろそろ次のキャリアステップを踏みたいなと思っていた時に、人事本部長に直接相談する機会がありました。いわゆる入社3年後研修に参加した時、ちょうど本部長が懇親会にいらしていたので、次のキャリアも考えたいんだという話をしました。そこでちょうどメディカル部門の医薬情報部というところで社内公募が出ることを教えてもらい、次のキャリアに踏み出したんです。その後は、医薬情報部の仕事でのパートナーであったマーケティングから声がかかりました。マーケティングでは新製品の上市にも関わることができて、それをトータル4年かけてやりました。この間、当時最年少で管理職になりました。32歳でした。今はもうちょっと若い管理職もいると思うんですけどね。その後、経営戦略部を経て、34歳のとき、当時最年少で部長になっています。

日本人がグローバルリーダーになるために必要な資質

それはもともとそのようなポジションを目指されていたのでしょうか。

実は、私は34歳まではあまりそういう意識はなかったんです。もちろんいろんなキャリアを経験したいっていうのはあったんですけど、“キャリアのスピード感”みたいなのを初めて意識したのが34歳の時ですね。社内外でキャリアの話をすると、大体、「いつから自分のキャリアについて考えていたんですか」みたいな話になるんですけど、私の場合は34歳なんです。私は24歳の時に就職したので、丸10年はあまり明確な意識はなく働いてきて、そのあとの10年で今の立場にいるような、そんな感じなんですよね。

34歳の時に初めて意識をされたということですが、何かきっかけはあったのでしょうか。

34歳で部長になったのですが、課長の時と比べて、急に視界が変わったんです。企業の中枢に入っていくので、部門長だとか、社長だとかそういう世界が見えてくるわけです。その時に大きな気づきがありまして。当時、私は日本人で最年少なので部長以上の組織の底辺にいるわけです。でも、ちょっと横を見ると、自分より若い韓国人の女性部長や30代のオーストラリア人の統括部長がいました。直属上司である統括部長も40代前半のインド人でした。部門長レベルも40代のイタリア人やドイツ人がいて、総じて部長以上の外国人比率は約2割、平均年齢は40代でした。翻って日本人の部長以上は8割ぐらいいて、平均年齢は50歳を超えていました。その10年の差をみたときに、何かおかしいなと思ったんですよね。自分は最年少で世間知らずでありながら、鼻息荒く、何かやってやろうと思ってるけど、上を見たら日本人はいわゆるみんなベテランで、一方、外国人はみんな相対的に若い、しかも、仕事ぶりを見ているとまあ優秀なわけですね。なんで10年もこんな差がついちゃうんだろうと。上司のインド人はあきらかにグローバルタレントでしたが、身近な日本人のロールモデルがいないとも思いました。
一つの要因として考えられるのは、日本では一つ一つのキャリアが長すぎる。製薬会社の場合は、新卒のうち、約9割の人がMRとして入社してくるので、「営業一筋15年やりきりました。それからキャリア考えます」では、グローバルタレントの中では、いきなり周回遅れになってしまっています。そういうことをだれも教えない。そこの意識改革をしっかりやらないと、いつまでも先ほど述べたような10年の差は埋まらない、日本からグローバルタレントが生まれないという問題意識、危機感を持つようになりました。

34歳の時、ご自身の中で気づきがあって、グローバルタレントを目指すということを意識されたわけですが、その後はどのようなご経験をされていったのでしょうか。

まず、自分にとって大きなマイルストーンとしてあるのが、ファイザーで後発医薬品事業を立ち上げたことです。これは、ピカピカの革新的新薬メーカーであるファイザーに所属している社員にとっては、何が悲しくて新薬の敵(?!)である後発医薬品なんてやるんだと、そんなもの誰がやるんだと、まあ、はっきり言うと、当時の多くの社員はだれもやりたがらない仕事だったんです。社員の80%以上は間違いなく反対してましたね(笑)。当時(2008年)から見て10年後の2018年に後発医薬品の目標80%っていうのははっきりと政府の文書にも入っていたんですけど、当時はまだ20%ぐらいにしかなっていなくて、10年後にそんな数値に到達できるとは当時多くの人が難しいと考えていました。ただ、日本の医療財政の見通しを考えると、間違いなく実行されるだろうということは感じていましたし、2008年当時は後発医薬品の品質に対する信頼性が問題になっていたので、ファイザーのような有名な新薬系製薬企業が取り組んだら風向きが変わるんじゃないかという読みがありました。将来的にこのビジネスは必要性を増し、規模も大きくなることはわかっているし、社会に役立つことですから、この事業は自分にとって成すべきことだと。さらにいうと、こういうみんなはやりたがらないけど、新しい成長事業となる新規ビジネスを会社の中で立ち上げるというのを経験する機会に巡り合えることもなかなかないし、製薬事業の端から端までをしっかり理解できる絶好の成長機会だと考えました。ですので、この仕事やらないかという話があった時には迷わず喜んで引き受けました。
本当に製品も人も戦略も組織もないところから立ち上げて、実際に2年後には年間50億円を売り上げ、3年後に年間売り上げで300億円超になりました。事業開発みたいなところからマーケティングまで一通りやれたっていうのが今のキャリア上の強みにもなっていると思います。また、各種医療制度のネガティブな変更などの激しいビジネス環境変化に加え、製造工程でトラブルがあったり、後発医薬品事業をよく思わない社員の根強い反対など、いろいろ問題は起こりました。でも、今振り返れば、グリッドに相当する部分なのかもしれないですけど、結果的に乗り越えることができた。この経験を通して、根拠のない自信というか、正しいこと、理にかなったことをやっていれば必ず最後は乗り越えられるんじゃないか、そういう肌感覚というか、成功体験みたいなものが得られたと思います。

自分の人生の主役は自分

そのあとに会社を変わられるっていうチャレンジをされていらっしゃいますが、そのきっかけは何だったんですか?

ある日、イーライリリーから、ポジションオファーがありました。その当時37歳になっていたのですが、その内容を聞いた時点では、身近な日本人のロールモデルがいないっていう感覚がまだ完全には解消されていなかったんです。そのオファーを通じて、イーライリリーのエグゼクティブの方々にお会いするチャンスがあり、ここには日本人の真のグローバルタレントがいるんだなと、この人達から近い距離で学べるんだということに対してとても魅力を感じたのを覚えています。当時の上司にも正直にその話をしたら、ファイザーとしては残念だけど、もし私があなただったら、私はイーライリリーの機会をとる、と言ってくれたんですよね。そういうこともあって37歳にして初めての社外へのキャリアチェンジを決めました。
あとここで少し触れておきたいのですが、34歳で日本人のグローバルタレント育成の遅さみたいなものに気づいたときに、45歳までに事業本部長になるというのは目標としてセットしていました。そのために自分に足りない経験は何なのかを考えてリストアップしていった。そのリストを埋めていけば事業本部長のオファーが来るはずだと考えていて、それを34歳から45歳の10年の時間軸でやらなきゃいけない。今思えば、その時点で、既に一つの会社で勤め上げるというような選択肢が事実上なくなっていたと思います。業界全体を一つの会社としてとらえるような感覚で。なぜならば上にいけばいくほど、ポジションの数って限られていて、そのポジションが空くタイミングが自分の人生のタイミングと必ずしも合うわけではない。自分自身の準備が整っていたとしても、その会社に就任したばかりの上長が何人もいたらしばらくそのポジションは空かない。言うまでもなく、適したキャリア機会が適したタイミングでその当時所属している会社の中で得られるならもちろん素晴らしいことだけど、でももしそうじゃないときに、妥協はしないでおこうという風に考えていました。事実、私の場合は、イーライリリーから海外勤務というチャンスがきた後、ブリストルから営業部長、そして、2018年にはグラクソ・スミスクラインから事業本部長のオファーが44歳であったんですよね。

それはタイミングが合ってご縁があって、ということが大きいのでしょうか。

逆に言うと、会社に居続けることだけにこだわっていると、そのタイミングと縁っていうのはつかめないんじゃないかなって思います。例えば、ブリストルとは最初はマーケティング部長の話をしていましたが、個人的にはもう経験済みのポジションなので丁重にお断りしようと思っていたところ、ブリストルの経営幹部の方たちが、『何をやりたいのか言ってみろ』と言ってくれたんです。私が、将来事業本部長になるためには、まずは営業部長をやりたいと言ったら、じゃあ検討してみようとなって。本当に縁だと思いますし、当時のブリストルの経営幹部の皆さんには今でも感謝していますが、今思うと明確な目標とタイムラインがあったから道が拓けた。もし、自分のキャリアプランとか、45歳までにこれとこれをやるんだっていうものがなければ、そういう話にならなかったと思います。

その辺の感覚は、完全に会社と馬場さんが対等になっている感じですね。

そうですね。結局は会社や上司が許可してくれないとできないという部分もありますが、自分は確かに会社やポジションを選んでいるし、そういう意味では対等。違う言い方とすると、ぶら下がり感というのはなくて、自分のキャリアの責任は結局自分で取らなきゃいけない。会社や上司ではない。もっと言うと、自分の人生の主役は自分だという意識はかなり強くて、そういう意味でいうと多くの日本人とはちょっと違う感覚、期待を会社に対して持っているのかもしれません。会社や上司にお世話になっているから仕方なく。。。という理由でキャリア選択を考えるっていうことはあまり想像できないです。
誤解なく伝えたいのは、企業の組織階層を昇ることだけがキャリア人生じゃないし、それが持つべき仕事の価値観とは全く考えていません。それぞれの人生が幸せであるために、人生で活動的な時間の大半を費やす仕事も自分らしく充実させることが大切だということです。でも、特に人生の幸せの条件や仕事観とキャリア形成が強くリンクしている人は、明確な目標、タイムラインを持っていないと、機会損失、いわゆる対等な交渉の機会を生み出せないというのはあるという気がしますね。

レジリエンスの高いリーダーシップが求められる

今までそうやってありたい自分を実現するためのチェックボックスを埋めながらキャリアを積んでこられて、今、執行役員、事業本部長になられているわけじゃないですか。このお話を読む方からするとすごいサクセスストーリーに聞こえると思うんですけど、そのうえでご自身に感じる課題などはあるのでしょうか?

リーダーシップですね。今、求められているリーダーシップスタイルって、いわゆるトップダウン型の、トップが正解を持っていてそれを組織全体にカスケードダウンするような形ではない。これだけ環境変化が激しく、過去の成功体験が役に立たないような状況のなかで、じゃあ、リーダーの役割って何だろう?と。多様な人材をとりまとめて、最適解みたいなものを生み出す能力、そして、合意したことを力強く推進する能力、そういう要素があると思っています。また、次世代に受け入れられるリーダーでないといけないと思うんです。今、これからの社会のインフラの中心となるICTなどのテクノロジーが小さいころから存在する“デジタルネイティブ”ともいえる次世代が強い集団の力を持っていて、SNS等で速やかにつながって迅速かつ効率的にムーブメントを創り出すことができます。世界でおこっている政治的な変化の背景には、デジタルネイティブの存在があります。その人たちが次世代の社会の主役だとした場合に、今、彼らをリードできるリーダーシップを身に着けないといけない。それは、トップダウンのリーダーシップ一辺倒じゃないだろうと。そこはすごく難しくて、もちろん一朝一夕にはいかない。みんなが同じことをやっていればみんながそれなりに成功できる環境ではなくなって、正解がわからない社会のなかで、毎日毎日、ビジネスチャンスが生まれると同時に、思ったようにいかない困難な状況が次々と生じています。その状況下で、リーダーの立場にある人は、レジリエンスというのか、困難に直面した時に、自分だけではできないこと、それまでの経緯で間違ったことを素直に認めることで、周囲の力を引き出して、新しい方向性を示し、乗り越えていく、結果として、自分の心身の負担も軽減できている、そういうリーダーシップなのかなと思うんです。もちろん、まだ私自身まだまだ開発中ですけどね。

ここまでの目標は既に達成されたわけですが、この次の目標というのは、あるんでしょうか?

34歳で立てた45歳までに事業本部長というプランを達成するまでは、その先は、どこか日本以外の、日本より小さい国の社長をやって、その後より大きな国の社長で戻ってくる、それを50歳までに完了したいというのが自分のキャリアイメージだったんです。あくまでイメージ、妄想ですけど(笑)。ただ、事業本部長になってから、自分らしくあること、自分の価値観っていうものをより深く考えるようになって、自分が本当にそのポジションを求めているのかっていうのをもう一度考え直す時期に入っています。例えば日本法人の社長になることって本当に自分が求めているものなのか、それで本当に自分も周囲も幸せになるのか、自分らしくいられるのか…34歳からの10年間は明確なキャリアゴール、ステップをもって、一気にチェックボックスを埋めていったわけですけど、今は内省しているというか、セルフアウェアネスの世界に入っていっている最中ですね。本当に自分がどういう風にありたいのか、社会にどのような貢献をするために生まれてきたのか、50歳までにさっき言ったようなキャリアを描くことが本当に自分らしいことなのか、今自問自答を繰り返しているというのが正直なところです。そのうえで何を目指すのかっていうことをより明確に決めると思います。

いろいろなご経験をすごいスピードで達成されてきたからこそ、一段視座の高いところからご自身の人生や本当の幸せを考え直すことができるようになっていらっしゃるように思いました。ありがとうございました。

この記事をシェアする